1977~1978年
歌手への道に向けて幸子の挑戦は始まった。一度も来たことのない東京で幸子の厳しい日々が続いた。
幸子は歌の師匠新井利昌(あらいとしあき)先生のレッスン室から近い港区の三田にアパートを借りた。 家賃18,000円、4畳半一間の部屋、トイレは共同、お風呂はついてない築40年の古いアパートだった。幸子は毎日12時間のアルバイトと30分のレッスンの日課を熟さなければならなかった。 写真は当時幸子が住んでいたアパート |
▼アパートは表と奥の二棟に分かれており、幸子は表の方に住んでいた。 |
▼このわずかなスペースで幸子は肺活量の増大と体重減量のために毎日一生懸命に縄跳びに励んだ。 |
▼ 幸子が住んでいた部屋だ。 |
◆毎日12時間のアルバイト |
お父さんの反対を押し切って歌手への道に飛び込んだ幸子に現実は厳しかった。物価の高い東京、助けてくれる人は誰もいなかった。家賃も生活費も、そしてデビューしてからかかるであろう費用までもすべて自分で解決しなければならなかった。 |
幸子には休みの日はなかった。ひたすら毎日12時間もの労働に耐えていた。写真(下)は当時幸子がアルバイトをしていたスーパーフェニックス(港区三田)、幸子はここで時給400円でアルバイトをした。このお店の近くに幸子のアパートがあり、新井先生のレッスン室とは約1㎞離れていた。幸子はその3か所を行き来する日々を送った。 |
▼アルバイト先のスーパーフェニックスから眺めた景色。東京タワーが綺麗に見えるところだ。 幸子は毎日この東京タワーを見上げながら何を考えていたのだろうか…… |