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八海さんからのお便り

 

八海さんのお便り

2016年8月14日 

 

数日前に魚沼後援会の八海さんからお便りが届きました。

すぐにでもご紹介をさせていただかったのですが、あいにく翌日私の大阪後援会の訪問が予定されていたので、今日になってようやくアップすることが出来ました。送ってきたのは……

 

 

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八海さんがプロデュースしたCDです。

四季の新潟と越後自慢がそれぞれ唄とカラオケが収められています。

 

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「幸子絶唱 村上幸子メモリアル追悼盤」を発売する際のパンフレットです。

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あとは、八海山の作文です。今回皆さんに見ていただきたいのはこの作文です。読みやすくするために、下に全文を書き写してあります。長文ですが、どうぞ最後までのご一読をお願い致します。でもその前に、・・・                         

img497 この八海さんという方への理解を少しでも深めるために左の手紙を先に読んでください。PCの方は左の手紙をクリックしてください。モバイルの方はそのまま拡大して読んでください。

 

 

月の兎――村上幸子聖女伝説

                            

                              

 

            はじめに

 

村上幸子は月の兎に他なりません。月の兎とは、仏教の説話の一つで、一言で言えば慈悲の心を諭す自己犠牲の話です。

それは次のような話です。その昔、猿と狐と兎が仲良く暮らしているという話を聞きつけて、天の帝が老人となって食べ物を求めました。猿は木の実を、狐は魚を持ってきました。しかし、兎は何も見つけられませんでした。そこで、覚悟を決めた兎は、集めた薪に火をつけてもらい、焼けた自分の身を食べてください、と自らその中に飛び込んだのです。これをみて、深く感動した天帝は、亡骸を月の宮に葬りました。それによって、月に兎の姿が映るようになり、月の兎として語り継がれることになりました、という話です。

この話は、自らの生命はなくなろうとも、相手の生命を救うためには自分の身を捧げてもよい、という気持ちが大事だ、というたとえ話です。

私は、この話を手塚治虫が釈迦の一生を描いた作品「ブッダ」の冒頭と最後に出ていることにより知りました。同様の話としては、法隆寺の玉虫の厨子に描かれている「捨身飼虎」の話があります。

良寛さんは、この話を長歌として残しており、平成17年6月には歌舞伎座において中村富十郎主演の舞踊劇として上演されています。その中で良寛さんは、子どもたちが「兎があまりにもかわいそう」と悲しがる様子をみて、「それが情けというものじゃ」と教えるのでした。

 

  村上幸子と広島のファン

それでは、村上幸子はなぜ月の兎なのか。それは、幸子さんのお母さんから次の話を聞いたことから確信するようになりました。

広島に村上幸子の大ファンがいたのですが、癌を宣告され、余命いくばくもない、という状態になったそうです。そして、生きているうちにどうしても大好きな村上幸子さんのコンサートに行きたいということで、無理を押してでかけ、楽屋で幸子さんに訳を話し、しっかりと手を握ってもらったそうです。その後、なんとその人は奇跡的に癌が治ったそうなのです。しかし、反対に幸子さんはリンパ腫となり、帰らぬ人となったのです。そして、その広島の人は、荒川町の実家を訪ね、お礼のあいさつにうかがい、幸子さんの遺影に手を合わせた、というのです。

まさに、自分の身を犠牲にして相手を助けた、としか言い様がありません。幸子さんは、まるで病を癒す薬師観音みたいです。

 

  渡辺 謙との縁―――あなたもそうなのよ

もう一つ、私が考えるに、渡辺 謙との縁が似た例としてあります。

渡辺 謙は、なんと村上幸子を同じ10月21日生まれで、実際は1年先に幸子さんが生まれているのですが、巷では同じ昭和34年生まれということになっていて、同じ年月日に誕生したことになっています。同じ新潟県生まれで、一人は歌手としてもう一人は俳優として芸能界で活躍する同じ星の下に生まれた二人、ということになるわけです。

さて、この二人、不思議なことに病気になる時期が一緒です。そして、さらに因縁めいているのは、渡辺 謙の前夫人の由美子さんと幸子さんが会ったことがあるという事実です。この話は、幸子さんのお母さんから聞きました。

それによれば、幸子さんは由美子さんから渡辺 謙の病状の話を聞き、「あの人、もうだめなんですって」と、お母さんに語ったそうです。それを聞いて、お母さんは思わず「あなたもそうなのよ」と口に出して言いそうになった、とのことなのです。

幸子さんには、リンパ腫であと半年の命、というのは知らされてはいませんでした。しかし、本人はわかっていたようです。幸子さんがお母さんに隠しながら綴っていた闘病メモからはそのことが伺い知れるようです。渡辺 謙と同じ誕生日というのを幸子さんが知っていたかどうかはわかりませんが、どうも幸子さんは自分の命を削ってでも渡辺 謙を助けてあげたい、と考えていたのではないか、と私には思えてなりません。

私は、「不如帰」の入っているDVDを買い求め、幸子さんが逗子の海岸を歩くシーンとともに流れてくる「二つ命を結ぶ糸、ちぎれて哀し相模灘」の歌詞を聞いた時、咄嗟にこの文句、この歌は、渡辺 謙へのメッセージソングだ、と直感しました。同じ誕生日である一年先に生まれた姉として、自分の生命力を弟とも言うべき渡辺 謙に与えたのではないか、と思うのです。今の渡辺 謙の活躍は幸子さんのおかげだ、と私は強く思っています。

このように、渡辺 謙との関係においても、幸子さんは自分のことを構わずに人に尽くすタイプの女性だったのだな、とつくづく思います。

 

   流し続けた涙の意味

 幸子さんは、亡くなる時も、そして亡くなってからもずうっと涙を流し続けていました。私は、その涙の意味をもう一度考え直してみたい、と思うのです。それは無念の涙ではなく、天からの啓示を受けての随喜の涙ではなかったのか、と。

 考えるに、自己犠牲により自分の生命は尽きたとしても、自分の生命を相手に与えることにより、自分もまた別の意味で生き続けられるのだ、と悟り、その達成感とともに、現世から離れる少しのさみしさを含め、今、神仏の意思により天に召されてゆくのだ、という歓喜に包まれての随喜の涙では、なかったか、と信じたいのです。

 だからこそ、今でも人気は衰えず、今でもCDの発売が継続して続いていて、その歌は、多くの人に親しまれ、ファンを始めとする人々の心の中に生き続けている、ということになると思うのです。それらは皆、神の思し召しに他なりません。幸子さんが三十一歳という若さで夭逝したのは天命だった、と強く感じています。

  

  遺影の涙

 幸子さんは月の兎であるがゆえに、数々の奇跡を起こしています。その一つに、母の日の遺影の涙があります。ずっと一緒に応援をしてくれて、病気の時には涙を見せずに看病してくれたお母さん。その母一子さんへの感謝の気持ちを現世に示すべく、母の日に仏壇に飾ってある遺影に涙の筋を表出させました。

その話をお母さんが私にした時、お母さんは私に、「幸子は悲しんでいるのでしょうか」と尋ねました。私は答えました。「いいえ、幸子さんは、お母さん、いつもありがとう、と感謝のうれし涙を流しているのです」と。

私も右斜め横から遺影を見てみました。確かに左目の目元から涙に見える筋がしっかりとガラス面に反射して見えるのです。遺影に涙に見える跡が出る、というのは、物理的には、お供えの花などについていた露がガラスまで飛んで付着したのだ、といえばそれまでのことです。

しかし、不思議なことにちょうど左目の目元にその水滴が当たる、なんてのも偶然にしては出来過ぎています。似た例として、秋田にある教会のマリア像が目から涙を流した、という事例があるそうです。何はともあれ、偶然の産物であるとしても涙を流したように水滴の跡がつき、それが現世に生きている我々に天にいる幸子さんからのメッセージとして受け止められ、不思議な気持ちに包まれることは確かなわけで、それが奇跡の一つに他ならない、と言われればそれなりにうなづけます。

 

四季の新潟」と二人の幸子

奇跡といえば、「四季の新潟」を小林幸子が歌ってくれた、というのもその一つに入ると思います。縁あって、私は無謀にも小林幸子に「四季の新潟」を歌ってほしい、とお願いしたことがあったのですが、もちろんしっかりと断られまして、あきらめていたのです。

ところが、結果的に見事実現しました。それは、新潟大学の寮歌として「四季の新潟」が親しまれていたことから、二人の幸子さんとも新潟大学首都圏同窓会との縁により歌うことになったのです。

私は、同じ幸子という名前で同じ新潟県出身ということで、歌い手を生業に選んだ二人の幸子さんは、姉妹のように仲が良いのだ、と勝手に思い込んでいました。しかし、実際はそうではなく、二人はライバル同士で火花を散らし合った仲だった、ということを最近知りました。

加えて、二人のCDが似ているのも不思議な話です。小出町新潟市が出したのですが、片や閉町記念で一方は合併記念、名前のロゴが一致していて村上と小林が違うだけ。片やタイトルは「越後自慢」と「越後絶唱」ということで2字違うだけなのですが、受け取るリスナーの越後のイメージは正反対です。このことは、新潟日報の投書欄「窓」において紙上をにぎあわせました。私も投稿して見事採用されました。

ちなみに小林幸子あてのデモテープのナレーションは、小出郷文化会館のミキサー室で録音されました。新潟日報の「幕下りる時」の記事写真と小出まつり歌謡ショーで歌っている村上幸子さんの写真を飾りながら、魚沼市観光協会事務局長の「魚沼のサッチャン」こと桑原幸子さんが、私の書いた原稿を読んでくれて作成したものです。

村上幸子が持ち歌として歌っている「四季の新潟」を、一度断られたにもかかわらず小林幸子が歌ってくれたことは、まさに私にとっては奇跡そのものでした。いろいろな経緯はあるものの、三国志の如く「死せる村上幸子、生ける小林幸子を歌わす」という感じです。

 

 聖女伝説

 その他にも、幸子さんは猫や蛇や蝶などいろいろ姿を変えて現世に現れてきていますし、お墓に雷が落ちたなんてのも偶然にしては出来過ぎています。新潟駅に、亡くなってからもなおパネルが13年間も掲出され続け、ふるさとの

荒川町の方向に向かって、たらい舟に乗りながら笑顔で旅立つ人を見送り続ける、なんてことは、もう泣きたくなるほどの偉さです。ワールドカップのサッカーさえなければ撤去されることもなく、今でもそのままで笑顔をふりまいていたのではないでしょうか。撤去された後のことですが、羽越線で突風による脱線事故が起こりました。幸子さんの写真パネルをはずしたばかりに、と思わざるを得ません。このことは私にとって、都市伝説の一つとなっています。

私自身も鈴木家の墓の場所がわからないままに歩いていたところ、自然と墓の前に導かれたり、2回目に訪れた際には曇り空から西の海辺のあたりから後光の如く陽がさしはじめ、やがてその光が幸子さんの墓にあたりました。その後、何か起こるのでは、という予感がしていたところ、東北の方向に虹がなんと2回も出たりして、思わず車の中で「奇跡だ」と大声を出したこともありました。また、その他にも幸子さんにいろいろ助けられたり、カラオケでいい点数が出たり、と小さな奇跡と思えることも体験しています。

このように考えると、幸子さんは人々に奇跡を起こして功徳を与える聖女の一人だと言えます。小池可奈さんの「さっちゃん物語」にも書かれている様に、まさに観音様の生まれ変わりと言ってもよいでしょう。

今回、歌手活動30周年記念の特別公演が行われるのも、一般的にはなかなかやれないことです。石原裕次郎や美空ひばりに匹敵する快挙です。裕次郎や美空ひばりが追悼忌を盛大に行なうのはプロダクションの力ですが、村上幸子はファンの力であり、17回忌や今回の30周年特別公演は後援会の主催です。

「ファンの皆さん、私を忘れないでね」と遺言ともいうべき七夕の短冊の言葉を、しっかりとファンは受け止め続けています。幸子さんは、みんなの心の中に生き続けていることに他ならないのです。

幸子さんが奇跡を起こす聖女ならば、お母さんである一子さんはキリストの母たるマリア様と言えると思います。そんな思いのせいでしょうか、近頃、私はお母さんの顔がだんだんとマザーテレサの顔に見えるのですが・・・。

そして、お母さんは、天上界の幸子さんと地上界を結びつける巫女さんの役目も果たしていると思います。だからこそたくさんの奇跡が生まれるのだ、と私は確信しています。

終わりに、私の詠んだ三首を添えて、聖女伝説を締めくくることといたします。

 

  導かれ参りし墓は陽に満ちて

       村上幸子微笑みており

   

      多かれと

       が祈る  思い示して虹の懸かれる

望月に浮かぶ兎を眺め居て

      想い出ずるは君の笑顔よ